夏の終わりに

いつもの調布のレッスンの後外に出ると、夕方の街は、ほぼ同じ時刻なのに、二週間前よりややうす暗く、

長袖のシャツを腕まくりしているのが少し肌寒いほどだった。

まだ8月だし、せっかくまくりあげた袖を下ろすのも悔しくて、そのままにしていたらやっぱりくしゃみが出た。

考えてみれば、海もプールも花火もお祭りも、

夏らしい予定を立てようとしている間に、気付いたら今年の夏が終わり始めている。

もう半回転くらい人生を変えてみたいと最近また思い始めているのも、そりゃあそうだろう・・・

 

今年私が一番夏を感じたのは、そこら中で工事中の渋谷駅東口にて、

明治通りの車道脇にいつの間にやら現れた臨時タクシー降り場から、

同じくいつの間にやらそこに脚を下ろしている仮設階段をのぼり、

取り壊されたビルのおかげでぽっかりできた空へと、一段一段、合金の板をサンダルで音立てながら、

木も草もない工事現場を見下ろす私の肩や二の腕が、何にも遮られることなく、太陽にじりじり灼かれていく、

そんなたった1分もないようなあの瞬間だ。

あのおかげで、今年も確かに夏があったとなんとか実感できているが、

タクシーの運転手さんにそう話すと、なんと「お客さん、智恵子抄みたいですね」と言われた。



レッスンの方は、いわゆる定型的なレッスンではなく、

生徒さんが「歌える」ために私のできること、私だからこそできること、というのがだんだんわかってきてとても楽しい。

わかってきた、というのは、生徒さんたちが自ら歌いだすようになってきた、という意味だ。これは横で伴奏していてびっくりするほどはっきりわかる。

こういうことは、自分が歌っている立場にしかなかったときには気づけなかったことだ。

発声、呼吸法、音程、ディクション、などなど、

歌に基礎的なトレーニングはもちろん重要なことだけれど、それは歌うことの前では補助的なツールにすぎない。

それよりももっともっと大前提として、「歌う」ということができなくては。ツールも何もない状態で、まずそこへ行かなくては。

生徒さんたちは、「歌いたい」のだ。

「歌う」ということがしたくて私のところに来ているのだから、

私なりのやり方で、その背中を押してあげられるのだと気付いてから、少しは上手に背中をおしてあげられるようになってきた。

 

そして私自身にも、私はおそらく同じことをしてあげることができるようになった。まだまだではあるけれど。

疲れや緊張、その他いろんな要因で、「歌えない」ときがある。

シンガーである以上、ライブを成り立たせる最低限のこと、

ーーー伴奏をよく聴き、歌詞の言葉をメロディとリズムにするーーー

その最低限は自分でまあまあ納得いくようになってきているが(もちろんその目盛りを増やすことは私の仕事のひとつ)

それでも、困ってしまうほど「歌えない」ときというのがある。

そんなとき、自分で自分の背中を押してあげるのが、少し上手になったようにも思う。