新富町

生まれて以来私にもやっと台湾との縁が出てきたようで、最近ひょんなところから本当によく台湾関連の話が舞い込んでくる。というわけで台北の実家のベランダの写真。

 

藤沢は今朝も晴れ。台北の空より青が薄く、7時過ぎてもまだぼんやり早朝のピンク色が残っている。昨日より寒い感じがして、昨日の残りのわかめスープをさっそく温めた。

 

昨日新富町に行ったことを考えている。というか、行ってすぐに帰ってきてしまったことを考えている。どこかへ行く時は二つくらいのことをセットでする方が心が落ち着いていいんだよ、と先日言われたのを気にしているのか(お参りに行く時は帰りに参道のお団子屋さんへ寄ってお団子とお茶を、とか、映画を見た後はどこか喫茶店に入ってコーヒーを、とか)昨日、中央区役所で用事を済ませ、区役所のベンチにちょっと座っただけで帰ってきてしまったことをやんわり後悔している。区役所は地下鉄の駅の改札からすぐにあるので、地上に出て30分もしないであっけなく用事が済んでしまって、名残惜しく、でもあんまりのんびりすると帰宅ラッシュの時間になってしまうし、結局さっさと藤沢に帰ってきてしまった。せめて築地まで歩けばよかった。ふたが半分開いたままみたいな気持ちだ。

 

最後にあの辺りへ行ったのは、父が死んだ時だったか。区役所で、番号札を引いて自分の番号が呼ばれるまで、どのベンチの誰の隣に座って待っていようか考えながら見回してみると、たぶん60代後半くらいの人だろう、全体的に寸の短い茶色っぽいツイードのジャケットを着た顔の大きな男性が、両膝の上に手をグーにして乗せ、足の短い民族特有の重心でベンチにしっかり腰を下ろしていた。ああいう感じのいわゆるジジくさくて堅苦しくて懐かしい愛おしいような上着ってどこで買うのか、あの年配の方々はどんな時にああいうものを買うんだろう。肌寒くなってくる頃に奥さんが買ってくるんだろうか。同世代の男の友人達はまだ誰もあんな服を着てないけど、それぐらいの年頃になってくると自然とあんなのが好みになって心地よく感じられてくるのかな。父も休みの日には家でもあんな典型的年配男性のジャケットをよく着ていて、休みなのに肩の凝りそうな普段着だなと思って見ていた。懐かしくなってこの人の横に座った。

 

あんまり父のことは普段考えない。母とは今もちょくちょく電話していろんな話をするけど、父はもう死んでしまったので話題にも上らないし、そもそも、私が物心ついてからの両親は仲がいいとは到底言えないような夫婦で、両親が争うたび、私は日本語も母語じゃないし何かと分が悪い母の味方として戦いに加わり、父に関しては若くて美しい母にさんざん嫌な思いをさせた日本人の男、という印象が強かったが、何と言ってもこの二人は結婚したくらいだし、話はそんな単純ではないよなとようやく最近思うようになった。

 

「ニッポン複雑紀行」というウェブマガジンの、アメリカ人の祖父と沖縄出身の祖母を持つ黒島トーマス友基さんという方について、全く同じルーツを持つ下地ローレンス吉孝さんという社会学者の方が書いたインタビュー記事を読んだ。内容は非常に深く、それでいて文章と写真の親しさに満ちた温度感が素晴らしく、私もニッポン複雑仲間だし、前半も後半も最初から最後まで惹きつけられてしまった。特に、取材後記として下地さんが最後に書いた言葉にハッとしたので、ちょっと引用。

 

「ルーツ」について話すとき、とかく外国につながりのある方の親(もしくは祖父母)について語りがちだ。「語り」や「生き様」は誰でも均等に記憶されるのではない。不均衡に残され記憶されるのだ。

  

私ってどうだろう、と思ってみると、私の場合も、日本人父と台湾原住民母だと、台湾原住民母について話すことの方が圧倒的に多い。最近の台湾ブームもあってか台湾のことを聞かれることも多く、先住民族について興味があって知りたいという人も多いので、語る機会そのものが多く、私自身もっと若い頃には台湾原住民について研究したり書いたりしたいと思っていたし、そう思ってたはずが今じゃ人前で台湾原住民の歌を歌って、自分でも原住民の言葉で曲を書いて演奏したりしていて、そうかこれは私がここしばらく日本に住んでいるからというのもあるんだな、と思った。もし私があのまま日本に越してくることなく、台湾で生まれた台湾の女の子として育ち、台湾の学校へ通って思春期を過ごして大人になったら、そうしたらもしかして私は日本人だった父のことこそを周囲に積極的に語っていたかもしれない。いまだに原住民に向けられる根深い差別的眼差しをうまく躱し、自分の身を守るためにも。

 

ルーツって人生のいろんな場面を左右する大変なことでもあるけど、でも捉え方やその時の環境次第みたいな部分もあって、そんな程度のものだよなとも思う。そしていくら私が父のことを語らなくても、出かける前、洗面所でいつものように化粧をしていると、マスカラを塗ろうとして鏡に近づく自分の顔が、突然まぎれもない父の顔に見えて、何度まばたきしても横を向いても、お化粧を最後まで終わらせて髪を整えても、どう見ても父の顔をしていることはしょっちゅうある。