疎開のような

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月3日 台北

4月になった。

スケジュールのページに詳細更新していますが、今月出演予定だったライブ全ておやすみします。延期もしくは内容変更にて開催。この大変な中変更に対応してくださったみなさん、本当にありがとうございます。みんなが無事でありますように。

 

苦しいね。親しくしていた日本の人たち誰にも会えないが、みんななんとかやってるんだろうな。それ以外にどうしろと。

 

3月4月というのはそこらへんでたくさんの花が咲き出して、そのせいか空気も明るくなって、駅まで歩くのさえ本当にうれしかったし、小田急線で電車が藤沢駅に入っていく前の、空が一気に開けてきたと思ったら桜がわあっと並んで咲いてるてっぺんのところが窓越しに、あ、あ、と見えてきた2年前、ちょっと遠いけどここに引っ越したいなと思ったんだった。みんなどんな気持ちで過ごしているのだろう。私はまだ台湾にいて、ここには春らしき春がない。いつも何かしら咲いているのだ。とても見事に。ベランダではベゴニアの木の薄いサーモンピンク色した花たちが私の頭上で房になって咲きこぼれ、透けた花びらを落とし、私の家で、下の家で、ななめ向かいの家で、ブーゲンビリアの木々が満開の花のように、赤、白、さまざまなピンクの苞が小さな花を真ん中に包んで群れとなり枝を伸ばし、鳥たちがそこに飛んできて止まっては歌い、シダが生い茂り、外を歩けば大小のランがそこらで咲き、公園の木の幹にはカトレアが咲き、夜は月桃とアンスリウムの白い花が揺れている。駐車場のガジュマルの気根が揺れる。名前を知らない花々が咲いている。パンノキは3階建より高く、うちわよりも大きな葉を落とし、教会の庭や猫のいる花壇の脇に青いバナナが実っている。美しいというよりほかない場所にいて、私はここには春がないような、何か取りこぼしてしまったような、私などいない向こう側の世界で春が咲き出しているようで、死にそうに心細くなったりしている。「そっちにいる方が安全だよ」「ここにいる方がいい」と誰もが言い、私もそう感じるけれど。

 

この数週間、特に役割のない人間という感じで息をしている。寝て起きて食って寝て。久しぶりに母の世話になり、母は祖父の介護をしながら当然のように私を受け入れ、部屋をくれ、食事をくれている。祖父にご飯を食べさせる母の横に時々一緒に座る。母を見ていると、この人は何か世界に負い目でもあるのか、または前世で何かあったか、とつい頭をよぎってしまうほど、みんなの世話をすることでエネルギーを循環させている。

 

おばの躁うつが悪化し、「ひとりで家にいるのはやめなさい」と病院の先生に言われたというので、昨日からおばも私たちと一緒に住むことになった。祖父、母、おば、私。清明節の連休が終われば、母とずっと同居している私のいとこが山からバイクで帰ってきて、私たちは5人暮らしになる。祖父、母、おば、私、いとこ。山ではホンイーの飼っている猫がまた子どもをたくさん産んだそうで「1匹連れて帰ってきてもいいかな」といとこが言っている。2年ほど前に母の飼ってたみーちゃんが死んで、私たちはいまだにずっとみーちゃんの話をしている。

 

母が時々ソファやベッドでごろごろしている姿を見て私はやっと安心する。美しい母からせめて柔らかさが損なわれないでほしいと願いながら、私は寝て起きて食って、夜はゴミ捨てに行って、雨じゃなければその後で近所の公園に散歩に出かける暮らしをしている。

 

今朝「ライブどうしよう」と連絡があった。もし私が日本にいたなら今日一緒にライブをする予定だった。

 

歌って生活できるなんて、そんな奇跡みたいなことあっていいのかなと、活動している真っ最中にそう思っていたのだからしあわせ者だった。実家に戻って最初の頃は、ピアノを弾いたり、歌ったり、新しい歌を作ってみたり覚えてみたり、色々してたけど、ついに何もしなくなった。世界が変わってしまったのだ。でも随分前から、歌に関してはもう死んだ人の歌ばかり聴いていた。

 

変わってしまった世界の向こう側で、私の友人たちは今日も、少し注意深く支度をして、注意深く出かけ、演奏し、注意深く帰ってきているのだろう。そうするよりほかどうしろと。友人だった人たち、と書いてしまって慌てて書き直した。私のいるところから、みんなのいるところがあんまりにも遠い。身体的にも、日本人は台湾に入れなくなり、台湾人は日本に入れなくなった。まあナニジンとかあんまり関係ないよとみんなと善意で話せてた頃、こういう具体的なことまでは想像できなかった。東京はどうなってるんだろう。ひとり実家へ疎開に出てしまったみたい。