清明

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月4日 台北

昨日は清明節。台湾の国民的お墓参りのこの日は例年よく晴れることが多いが、今年は曇り。おじいちゃんは寝たきりになってしまったので、母と私とおばの三人でベランダで簡易パイパイ(拜拜=お参り)。今年は多くの廟や霊園がオンライン墓参りサイトを作ってそちらを推奨し、どうしてもお墓参りをしたい場合は、時期を早めても「ご先祖様はわかってくれます」と政府が呼びかけたりもしていた。

 

パイパイは漢人の慣習なので、私たち原住民にはよくわからない。漢人と一緒に生活したことでもあれば別だろうが私たちはその経験がない。「パイパイは11時くらいにするのがいいって」とおばは彼氏から聞いたと言い、母は近所の雑貨店でお供えはどんなものを何種類揃えたらいいかを教わり、私はそれらを又聞きし、11時になると母がライターで線香に火をつけた。ベランダの植木を端っこに寄せ、リビングに置いている小さなテーブルを外に出し、魚、豚肉、鶏肉、果物、お菓子、飲み物、お茶碗にご飯、紙のお金を並べ、三人で一人一本ずつ線香を両手で持って、鼻の先あたりで前後に3回振り、それぞれにお祈りをし、みんなで紙銭を燃やした。紙銭は、環境に配慮した煙の少ないエコ仕様だった。お金が全部燃えたら、お供えした食べものを家の中に入れて、テーブルも戻し、立派な肉と大きな魚がそのまま私たちの昼ごはんになった。

 

一日外がうす暗くて、外も20度と台湾にしては冬の日のように寒い。今ぐらいの時期は雨が多くて、冬の乾いた寒さ(乾冷)と分けて「濕冷」という。おばは黒地に桜柄のちゃんちゃんこの下に更に黒いダウンのベストを来て、ベランダで赤いプラスチックの椅子に座って背中を丸めてタバコを吸っている。死んだおばあちゃんの趣味でうちにはやたらたくさんちゃんちゃんこがあり、そのちゃんちゃんこ趣味はいつの間にか母が受け継いでいた。母は私にも、これを着なさい、と赤の絞り染めのちりめんのちゃんちゃんこを渡した。母のはお揃いの紫だ。来客用ちゃんちゃんこもある。「日本でみんな着ているでしょう」と母は言うけど、そうだったっけ。東京での生活の記憶は母の中でみんながちゃんちゃんこを着てる夢と同化してしまったのかもしれない。私はキャミソールと薄手のカーディガンにパジャマのズボンで、母は「あんた見てるとこっちが寒い」と言い、おばは「她已經習慣在日本啦」と母に言う。こんなに長く台湾にいることになると思わなかったので、自分の服をほとんど持ってこなかった。クローゼットに私の高校生、大学生の頃の服、おばかいとこか母の服があり、そのあり合わせを着ている。

 

「そのパジャマのズボンはえりのよ」

 

と母が言う。脳梗塞で倒れた父が日医大病院から石和温泉のリハビリ病院に転院になり、お見舞いの帰りに寄った石和のイオンで母が買ったパジャマだ。15年くらい前のこと。母と私は文京区に住んでいて、私たちはイオンというものを石和ではじめて体験し、イオンはすぐに母のお気に入りの場所となり、父のお見舞いに行った日は母が必ずイオンの大きな買い物袋を提げて帰ってくるようになった。このパステルオレンジのネルのパジャマもそんな風に「すごい安くなってた、でもいいでしょ」と自慢げに値札を私に見せたあとくれた。パジャマの上だけないのは「おばあちゃんが気に入って本当は全部着たかったけど、太ってるから下のズボンが入らなくて上だけ持っていったよ」と言う。パジャマの下なら上に何を着てもそれなりに様になるけど、逆ってなんだか難しそうだな、と、やわらかなオレンジ色したパジャマの上だけ着てああでもないこうでもないと下をとっかえひっかえするおばあちゃんを想像した。おばあちゃんはこの台北のマンションから台湾大学病院に運ばれて亡くなった。父もそうだった。

 

東京で昔住んでいた家の近くのセブンイレブンの店員さん二人がコロナウイルスに感染したとニュースで知る。無事回復されますように。私はスリーエフ派だったけど、いつも親切にしてくれたあの店員さんは元気だろうか。近くの串カツ田中のお兄さんとかお姉さんとか。お弁当屋のお父さんとか。中国人らしいお嫁さんとか。みんな元気でありますように。