むかしの寝具

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月20日 台北

お昼頃おばが戻って来て、気分が悪いと言ってすぐに奥の寝室へ寝に行った。週末もずっと気分が悪かったらしい。おばが寝ているベッドには普段母が寝ていて、これは私が本駒込で一人暮らしをしていた頃新宿で買ったものだ。木のフレームのマットレスを支える下の部分が、ちょうど15cmくらいマットレスの足がくる側と左右にはみ出るように作られていて、うっかりそこに足をぶつけると飛び上がるほど痛いことを除けば、そのはみ出たところにちょうど読みかけの本や飲み物の入ったマグカップを置けるのでとても気に入っていた。

 

当時私はあんまり体調がよくなくて、随分長い時間を寝て過ごした。20代の半分以上ベッドで寝ていたと言っていいんじゃないだろうか。人生ほとんど水平だよね、と同じような症状のあった友人と寝転んだまま電話して笑いあったりした。あれが20代の女性としての私だったんだなと振り返ると、誰も言ってくれなかったけど、結構かわいそうだったなと思う。茨城のり子の「わたしが一番きれいだったとき」という詩を思い出したりした。一番きれいなはずだったとき、私は一番醜かった。というのも全身性の皮膚疾患だったので、熱がこもって腫れぼったくなっていた体中の皮膚があかぎれの様に乾燥し、炎症し、皮がむけ、赤くひび割れて汁が出ていた。皮膚というのはこれほどの状況になってもこんなに余すところなく私という私を包むのかと思った。24時間痒みがあり、いつもなるべく強いている我慢をやめて思いきり掻きむしると、その最中と直後だけ無に近いような快感があり、一瞬の解放感を感じるもののやめればまた耐えがたく痒く、動けば痛く、汁が出て皮膚片が散らばった。中でも顔は一番症状がひどく、まぶたも口周りもひび割れて、目も口もうまく開かなかったが、隠しようもなかった。茨城のり子というより、どちらかと言えばヨブ記のヨブだったかもしれない。不思議なことにお風呂で湯船に浸かっている間だけはほとんど痛くも痒くもなく、病気なんてなかったみたいな気持ちになることができた。そのために長風呂が過ぎて、結果的に翌日の夕方まで動けなくなるほど疲れた。

 

いいマットレスを買うとそれだけでものすごくしあわせになる、と初ボーナスで30万のマットレスを買った大学時代の彼氏が目を輝かせて言ったのをずっと覚えていた。痛み、痒み、苦しみの多かった私にとって、いいマットレスは一筋の希望だった。でもマットレスは安いものでもそれなりに値段がするので、昔旅先で他に見当たらずやむなく買った上等のバスタオルを出して、試しにその代わりにしてみようと思った。お風呂上がり、なるべく肌にやさしくていい香りのするクリームを用意して、指ですくって両手の手のひらで合わせてあたためて、ゆっくり時間をかけて全身に塗った後、そのまま上に何も着ないで、ベッドの上に敷いた外国サイズの分厚い大判タオルの上に乗っかるようにして、うつ伏せになって寝た。そのころ音楽は痛みや苦しみのない場所へふっと意識を飛ばしてくれるものだった。好きなCDのスローテンポな外国語の歌をかけて、寝そべって目を閉じていると、まるでどこかからマッサージの上手い神様が現れてねぎらってでもくれたみたいに、体から緊張が離れていき、心も落ちついて、そのまますうーっと眠りに入ることができた。だけど朝方になると、結局私は体のどこかを掻きむしりながら目を覚まして、掻き終わっても痒みは治らず、動くと肌がバリバリと割れて痛み、それからまた数時間眠れなかった。ようやく起き上がった頃には、上等だったタオルが皮膚の裂け目から出た血と浸出液であちこち汚れていた。何度洗っても消えず、タオルを使っては新しく増えていく染みを数えていると、自然と心の奥の方までがっくりとした。

 

台湾の実家から出て本駒込で一人暮らしをすることになった時、ついにベッドを新調した。30万には遠く及ばなかったができるかぎりいいマットレスを買った。私の体調は最悪の時に比べると随分よくなっていたが、それでも不安定で、結局また症状が悪化して起き上がることも難しくなり、大学院入試の頃には顔中に湿疹ができて眉毛が抜け、体の皮膚も切れて痛く、もしくは痒く、だいたいいつもあちこち掻いたり手で押さえたりして過ごした。マットレスは私をものすごくしあわせにしてはくれなかったが、確かにいいマットレスだった。一番ひどい時より病気が悪化しなかったのも、もしかしたらあのマットレスのおかげで多少はよく眠れていたおかげだったのかもしれない。

 

おばが戻って来た少し後にまた玄関のブザーが鳴って、郵便物でも届いたかと思ったら、山からキャベツを届けに来たホンイーだった。姐姐、姐姐、どこにいるの、と玄関の方から私を呼ぶ声が聞こえて、スタスタとみんなの声がする方へ急いだ。ホンイーは台所でキャベツのたっぷり入った大袋を持って立ち、「你們還好嗎?」と私たちを気遣う言葉をかけながら重そうな袋を母に手渡し、その立ち居ふるまいには山に暮らす男性の自信のようなものさえ感じられた。台北育ちのホンイーも、山に住むようになってから随分元気になった。話し方はまったりと舌ったらずのまま、すっかりタイヤル訛りになって、なんだか発声もよくなった感じだ。いつもは着古した服かちょうど同サイズの母親のお下がりが定番だが、今日は新品らしい紺色のナイロンジャケットを着ていて、少し物も良さそうでよく似合っていた。「かっこいいいね、すごく似合ってるね」と声をかけると、「そうだよ」と当然のように言う。パジャマ姿のまま寝室から出てきたおばもにこにこしている。引っ越したばかりの頃はろくに芋も掘れず畑で大泣きしていたそうだが、今ではいとこたちの畑を手伝ってお小遣いももらっているのだから私よりずっと偉い。ホンイーのおかげで私は今週採れたてのキャベツが食べられる。ホンイーはスマホで写真を撮るのが大好きで、細かいことは気にせず、とにかくどこに誰といても、前から横から後ろから、人、風景、動物、大量の枚数を流れるように撮っていく。隣で世間話をしていたかと思うと、いつの間にか前に伸ばしたホンイーの腕の先のスマホ画面が自撮りの構図になっていて、会話の最中で急に間延びした声で「姐姐,一,二,三」と言うので、「私まだ顔も洗ってないのに」と文句を言ったつもりだったがもう撮り終わっている。少し前まではこんな風に写真を撮ってはすぐさまその全てを無差別にFacebookで公開していたが、映りが悪い、二重顎になっている他さまざまな問題のある写真をすべからくアップするので各方面から怒られ、最近はホンイーなりに厳選して公開しているようだ。

 

「姐姐、いつ山に来るの?早く来てよ。山が一番いいよ。空気がきれいでウイルスもないよ」

 

別れ際、鉄の門の向こうでそう言ってエレベーターに乗り、マンションの下で車の中ホンイーを待っている母親と一緒にまた山へと帰って行った。

 

夜の7時になってもおばは起きてこなかった。「このベッドすごく寝心地いいね、って言ってたよ」と母が言うので、そりゃあそうだ、あれは私が昔具合の悪い頃、どうせ寝てるくらいしかできないんだからこれくらい、と選びに選びぬいて張り切って買ったベッドなんだと自慢した。エリの持ってきた敷布団あるでしょ、あれもすごいよく眠れるよ、あれ寝たことある?すっごく気持ちいいよ、いとこのおばさんたち二人、うちに泊まった時あの敷布団で寝てね、床の上だからちょっと悪いかなって思ったけど、好舒服喔、なーんて気持ちいいんだろうって、二人とも朝起きたらすごい感動してたよ、她們真的很感動呢、と母があんまり手放しに称賛しまくるので、まるで寝具を通して私の方がたくさんたくさんほめられているような気持ちになった。そういえば母はずっとあんまり子どもをほめたりしない人だった。母自身あんまりほめられたりしなかったのかもしれない。でも母とおばたち3人が、みんな私の寝具の上で気持ちよく寝ているだなんて、そんなにもいいことをあの一番辛かった私はみんなにしてあげられていたのかと母を通して知って、報われるもんだな、とやっと思った。