生存以外に

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年4月23日 台北

キッチンでコーヒーを淹れようとしたら、ドリッパーの縁のところに小さなかたつむり。緑色だから間違えたのかな。ホンイーがこの間山から持って来たキャベツと一緒にここまで来たんだろう。母が「あなた外で暮らしなさいよ」とつまんで窓から投げようとしたのでその前に。

 

昨日は「感染症の哲学」というオンラインワークショップを途中から視聴した。Zoom上に6人の日本、韓国、中国、香港の哲学者たちが集まって、新型コロナウイルスに関連するいろんな話をするというので、家で暇だし、無料だし、ちょっと見てみようかとなんとなく申し込んだが、夢中でノートをとって最後の最後まで聞いて、一人一人登壇者が退出して、主催スタッフの方々が業務連絡をし始めるまで聞いてしまった。日本語で人々が会話している声と内容を聞いて、そこに心を投げ出し没頭することのできた時間が持てたのは久しぶりだった。

 

台湾ではありがたいことに感染拡大もなんとかコントロールされているようで、死者数も比較的少ないこともあってか、コロナウイルスはやや日常化してきている感覚がある。私自身も不安な気持ちで生活することはほとんどなくなったので、このワークショップを機会にそろそろ自分の通ってきた気持ちを振り返ってみようかなと思った。

 

私がしばらく最も深刻にとらわれていた考えは、私が今ここで死んだら、誰が日本で私の死亡届を出してくれるんだろうというものだった。感染については、そもそもできるだけ防ぐけどそれでもかかるのが病気だし、治療については運も含めてまかせるのみなので、この二つについては割り切れる。でも私が台湾で死んだら、死んだ私は日本で誰の手によってどうやって処理されるんだろうか。

 

台湾で死ぬことは何も心配していなかった。埋葬については一応自分の希望を母に伝えたし、ここには家族がたくさんいるので、母が取り乱したとしても、たくさんのおばやいとこ達が一番いいように心を込めて考えてくれて、母のことも支えてくれるだろう。そこで終われたらいいいのだが、私には日本国籍があるので、日本に死亡届を出さなくてはならない。私は日本に家族がいない。一般的に日本人が外国で死ぬ場合、大使館とか領事館とかそういうところに死亡届を出せばいいはずだが、日本は台湾と国交がないので戸籍業務を行う在外公館もなく、死んで3ヶ月以内に日本で届出をしなくてはいけない。このことは父が台湾で死んだ時に知った。あの時はひとまず私が一人で日本に戻って死亡届やら諸々の手続きをしたが、あんな感じで私の死亡手続きをするために母は日本に行くのかな、と考えてみると、それは母がかわいそうだし、その前に台湾と日本の間を当分自由に行き来はできないだろうし、母には呼吸器疾患があるので、今の日本に行けと言われても怖いだろう。かと言って、あの時私が父にしたような手続きを家族以外の人に「死んだらお願いします」とは頼みづらい。でも家族がいない人だって当然死ぬよな、と「死亡届 家族がいない」とネットで検索してみると、わかったことには、家族以外にも同居人、家主、地主、家屋管理人、土地管理人などが私の死亡届を出せる人たちなのだった。最悪の場合は大家さんが私の死亡届を出してくれるのかと思うと、今更ながら、みんないろんな死に方をするんだなと思った。そんな風に必死で自分の死亡手続きのことを考えながら、ふと、別にこれまでそんなにきちんと生きてもこなかったのに、死ぬ時ばかりきちんとしてても妙かなと思って、やっと少し力が抜けた。今はここでこんな風に書けるが、悩み考えていた時期、私は本当に真剣で、自分の死がどう扱われるのかについて非常に切迫した思いがあった。不安や心配よりもっと重たい気持ちだった。

 

きっかけになったひとつは、イタリアで司祭が相次いで亡くなっているというニュースだった。1ヶ月ほど前、いつものように母とテレビの前でお昼ごはんを食べていると、中国語の字幕が被せられたCNNの映像が流れ、イタリア北部の様子を伝えた。その頃すさまじい勢いで感染者数が増えていたのがイタリアで、教会の床の上を埋めつくすように並んだ木の棺のイメージと、人のいない教会で慌ただしそうに動く司祭たちの姿を私はテレビで何度も見ていた。その日のニュースは、その司祭が死亡したというニュースだった。家族が感染者を看取ることは感染防止のために許されず、今ひとりで死んでいく感染者に寄り添えるのはただ聖職者たちだけなのだとすでに報じられていた。司祭は、ひとりで息を引き取っていく感染者の額や頬に触れて最後の祝福を与え、その結果ウイルスに感染して亡くなった。司祭の死は連日続いた。看取られない死。祝福すると死ぬ。私はソファに座りながら、そのまま体が沈みこんで地下3階あたりの暗いところへ降りていくように感じた。かなしみがあり、うまく言葉にならないそれ以外もあった。

 

昨日のオンラインワークショップ「感染症の哲学」の中で、國分功一郎さんがイタリアの哲学者アガンベンの言葉を紹介した。新型コロナウイルスのパンデミック後に発表した文章の中で、アガンベンは「生存以外にいかなる価値ももたない社会とはいったい何なのか?」と書いたという。

 

生存以外にいかなる価値ももたない社会とはいったい何なのか。

 

 

台湾での新規感染者数が一桁になって落ち着いてきた頃、死亡届のことをやっと口に出してみたいような気持ちになって、夜、母と大安森林公園を歩きながら話した。公園内からMRT大安森林公園駅出口につながっているあたりで、夜はちょうどこの辺が一番明るく、台北市のシェア自転車YouBikeの駐輪場とその向こうに並ぶビルが見えて、少しずつ花が咲き始めている月桃と歩道を挟んで小さな池がある。池の周りは時々ブルーの電球でライトアップされ、真ん中らへんに謎の湯気が上がっている。池の中では大体いつもゴイサギがじっとしていて、水面にあめんぼの模様が見えて、覗いても見えないところでカエルたちが低くて変な声で鳴き合っている。

 

「私死んだら日本で死亡届出してくれる人いないからどうしようって思ってたんだけど、死亡届って家族じゃなくても大家さんでも出せるらしいよ。考えたら、家族いないでひとりで死んでいく人だっていっぱいいるもんね。大家さんも大変な仕事だね」

「お父さん死んだ時ってどうしたんだっけ。エリがやったの?」

 

何気なくではあっても、死亡届を気にしていたとを口にしてみると少し肩の荷が降りた。何かもう少しべらべら話したい感じになって、母と二人で、樹木葬と花葬と選べるらしいがどっちがいいか、とか、私は木だな、そうだよ花は植え替えとかするかもしれないけど木だったらずっとあるし、とか、エリもしばらくさぶちゃんとみーちゃんの遺灰の間に置いといてあげようか、とか、軽い話をして歩いた。そういえば、父とも総武線に乗ってこんな話をしたことがあった。

 

「いいか、俺が死んだらな、帰りの電車で骨壷をあそこの網棚の上に置いてこい。大丈夫だ、誰も何も言わないよ。俺はお墓とかああいうのは大っ嫌いだ。網棚の上に置いたら、その後骨壷がどこに行くか知ってるか?JR忘れものセンターだ。あそこはすごいぞ。誰かが取りに来るまでなんだってずっと保管する。俺は死んだら忘れものセンターのロッカーの中だね。永遠に保管されたいね」