新鮮豆漿店

Eri Liao(エリ リャオ)ブログ 2020年5月17日 台北

今日は夕方から今年一番目の台風「黃蜂」が台湾に接近するという。どうやら黃蜂は当初の予想よりも台湾から大きく東側に外れて進んでいるようで、雨の降る気配もないが、それでも空は遥か上の方でかき回されているのだろう。今朝の空は一段と爽やかに晴れ上がって、雲に邪魔されることのない太陽は光が強く、とってもきれいな青がまぶしい。台北は三角形のような形をした盆地にあり、汚れた空気がたまりやすいのだという。ちょっとした small talk というか、エレベーターで誰かと乗り合わせる時など、挨拶ついでに「今天空氣不好」と言ってお互いにしかめっ面をし合ったりすることもしょっちゅうだ。だけど今日は本当に空がきれい。きっと空気もいつもより澄んできれいだろう。カノコバトもこの好天で機嫌がいいのか腹が減ったのか、今朝は私の窓辺を歩いて部屋の中の私をのぞいている。ここしばらくずっと寝込んでいたのでヒナの姿を見ていないが、このハトはちょうどヒナくらいの小ぶりの体つきで、しかしヒナにしては飛ぶのも歩くのも餌をつつくのも上手で、首も羽も模様がしっかりしている。もしかして私が寝ている間にヒナはこんなに成長したんだろうか。

 

そろそろ体も具合が悪いのをやめて起きてみようと思ったのか、空を見ていたら「豆漿を飲みたい」とはっきり思った。この大好きな朝ごはんが日本では気軽に手に入らないことが、私はいつもちょっと不満だった。(今は西川口の駅ビルで売っているそうですね。)ニューヨークにいた頃、英語のクラスに中国出身のビンビンという女の子がいて、毎朝、桶のように大きな丸いタッパーいっぱいになみなみと入った豆漿を学校へ持って来ていた。ビンビンは授業が終わっると同時に、さも忙しそうに教室を飛び出していくので、ゆっくり会話をしたことはなかったが、とにかくあの汲み立てらしい新鮮そうな豆漿が私は気になっていて、Hi や Bye の挨拶だけは欠かさずにしていた。ビンビンは英語が達者ではなかった。半分くらいはそのせいだと思うが、授業中の発言内容にもあまりキレがなく、大抵が凡庸あるいは突拍子もなかったが、自己紹介が非常に積極的だった。一番最初の授業の時に、「私の名前は Bing-Bing です。中国から来ました。私はアメリカでビジネスをしたいと思っていますが、この Bing-Bing という名前では真剣にビジネスをしているという信用が顧客から得られないと思います。だから先生、私にアメリカ人の名前をつけてください」と、その日初対面である先生に突如詰め寄ったので、クラス全員がビンビンという名前を一発で覚えた。

 

ある朝、ビンビンはめずらしく遅れて授業にやって来た。すでに席についているみんなの間を歩いて、唯一空いていた一番前の真ん中の席にすわり、いつものように荷物でパンパンの鞄を下ろし、鞄の中からノートと筆記用具を出し、そして防水フィルムの張ってあるテカテカした紙袋の中から、いつものように丸いタッパーを重たそうにして取り出しているようだった。このクラスの先生は、学生が授業中に朝ごはんを食べることをむしろ推奨していたが、たとえそうでなかったとしてもビンビンはきっと同じように豆漿を持参して授業に出ただろう。Soy milk がヘルシーだというのはすでにニューヨークあたりの人たちの常識になっていた。授業中の教室のどこかから豆漿の湯気が上がっているというのは、毎朝豆漿を飲む国に生まれた私の目にも奇妙な光景だったが、多様性や人目を憚らず奇妙であり続けることを絶対善として共同体に迎え入れたい人の多いあの街では、ビンビンの朝ごはんに物申す人は、少なくとも目立つ形ではいなかった。だいたい彼女はこの朝ごはんのために、毎朝、熱い液体の入った大きな丸いタッパーという大層運びにくいものを、信仰のように、抱えて歩き、通勤ラッシュのバスに乗り、バスの揺れに耐え、守り抜いてこの教室まで来ているのだ。そのような屈さない意志というのも、あの街では評価されるべきもののひとつだ。その時だった。まるで体の大きな人が銭湯で、周囲に遠慮がちに少しずつ湯船に浸かっていくかのように、びしゃーっと何かあふれ出ていく音がして、黒板に大事なことを書いていた先生が振り向いた。ビンビンがタッパーいっぱいの豆漿をぶちまけたのだ。ビンビンは席に座ったままだった。ナプキンなど拭くものを持っていた人数名がさっと駆けよって、これくらい何でもないよと励ますかのように床を拭いた。それだけではナプキンが足りないのは明らかだったので、ドアの近くに座っていた誰かが何か拭くものを探しに教室の外へ出た。もしくはこの惨事をいいことに一瞬席を外したかったのかもしれない。私は奥の方の席でぼうぜんとしていた。私よりもっと奥の席に座っていた誰か親切な人が飛び出していって片付けに参加したが、私はただ傍観していた。ビンビンも傍観していた。ビンビンの服にこぼれた豆漿をトイレから取ってきたペーパータオルで誰かが拭いた。

 

その学期の終わる頃、私はビンビンから新品の豆漿マシーンを130ドルで買った。ビンビンはどこかの店のチラシを私に見せて、ほら、他の店だと150ドル、この値段で売ってあげるからあなたは20ドル得したよ、と説明した。豆漿マシーンは実家にある象印の卓上マホービンくらいの大きさで、大豆を付属品のカップ1杯分入れて、線のところまで水を入れたらスイッチを押し、マシーンがごうごうとすごい音を立てて30分ほどで豆漿ができる。今まで自分が買ったことのある機械の中でも一、二を争う素晴らしい品物だと思った。使用後に洗うのが多少面倒ではあったが、毎朝できたての豆漿が飲めるよろこびを思えば、カッター部分についた大豆の殻をきれいに取り除くくらい何ということはなかった。昔誰かにもらったミキサーは、洗うのが面倒くさくて、ポタージュか何かを作るのに1、2度使ったきりキッチンの奥でほこりをかぶっていたが、この豆漿マシーンはほぼ毎朝使った。ビンビンに言われた通り、寝る前に大豆を水につけてふやかし、朝起きて顔を洗う前にスイッチを入れた。一度に1200mlほどの豆漿ができたが、それ以上少なく作ることはできないので、ベトナム料理屋でフォーをテイクアウトした時に手に入れた縦長の汁物用タッパーに入るだけ入れて、入りきらない分を出来たてのうちに飲むことにしていた。当時4人いたルームメイト達(フランス人、デンマーク人、アメリカ人、イタリア人)が珍しがって、一度試しに飲ませると皆おいしいと言ってくれたが、「冷蔵庫のタッパーに入ってるの、好きに取って飲んでいいよ」と言って出かけて帰ってきても、タッパーの中身が減っていることはほとんどなかった。

 

 

 

母がベランダの掃除をしている間に、潮州街の先にある豆漿店へと歩いた。日曜の朝の台北は静かだ。朝から気温は31度と高いが、全く日陰のない道を歩いていても、道の照り返しさえ気分がよいほどさわやかに晴れていた。豆漿店というのはだいたい朝ごはんか夜食、もしくは休日のブランチに訪れる場所であり、早朝から昼まで開いている店、夜から早朝まで開いている店、24時間営業の店などに分かれており、この新鮮豆漿店は朝5時半から昼までやっている。ちょっと前までは中正紀念堂の周りに、掘っ建て小屋のような豆漿店など朝ごはんを売る店がいくつも連なっていて、観光客も多いこのエリアは早朝から朝ごはんを求める人とバイクの群れで交通がぐちゃぐちゃになっていたが、きっとそのせいで何か施策が講じられたのだろう、あの掘っ建て小屋の店のほとんどが今はもうない。今でも道端にテーブルと椅子を出して営業している店が数件残っているが、その横には、調理道具やお皿を残して空っぽになった小屋に政府のお知らせの紙と立入禁止のロープが貼られていたり、あるいは人のいない公園のような緑地ができていたりして、すっきりしたが少しさびしい。国の発展とはこういうものなんだろう。掘っ建て小屋の周りが混沌と渋滞している台湾は、新型コロナウイルスの封じ込めに成功して国際社会に誇れる台湾ではなかったかもしれない。この新鮮豆漿店も、中正紀念堂横の掘っ建て小屋のひとつとして、1955年からつい数年前まで営業していた。今では住宅街の中に移転して台北屈指の「老店」として静かに朝ごはんを売っているここの豆漿は、いつも少し焦げた味がして、カップの下の方に溶け残った砂糖がたまっていたりして私の好みではない。でも時々買いに行くのにちょうどいい懐かしい味がする。