ようこそ愛之助

愛之助が来てからすっかり猫中心の生活に。迎えに行った日もギリギリまでお母さんのお乳を飲んでいたから、いきなりお母さんから離して大丈夫かみんなで心配したけど、人懐っこいのか忘れっぽいのか、夜泣きも全くしないし、全部の部屋のあらゆる角のにおいを嗅いで、3日ですっかりうちの人のようにしている。いとこも会社を早目に切り上げて帰ってくるようになって、毎晩みんなで愛之助を囲んで遊んでいる。ソファからテーブルへ飛び移れるようになって、椅子の背の上でバランスを取って座れるようになって、愛之助は毎日ひとつひとつできることが増えていく。「60を過ぎると、今まで自然にできていたことがひとつひとつ、できなくなっていってさみしい」と母が数年前言ったのを思い出す。その反対が愛之助で、母も60から何年も過ぎてしまった。私の目には母は前と大して変わらないように見えるけど、全然違うよ、と本人は言う。

 

夜中から大雨が降っている。梅雨なのにここ数日ほとんど雨が降らなくて、雨が降り出す前の、空気中に水蒸気が限界まで集まって集まって、この盆地が風の吹く隙間もないほどぎゅうぎゅうにつまった熱気で蒸しあがって、やっとのことで雨が降った。この時期の台北は曇りの日でも30度はあって、雨の降らない日が続くと、二日目にはもう歩くのも息苦しくなってくる。中医はおととい舌診で私のベロをみて「濕!」とひとこと言った。台北の空気中の湿気は私の中にまで入り込んで、私の舌をふやかし、膨らませているようだ。日本の漢字の湿という字は、ここの湿気にはあっさりし過ぎている。繁体字の濕は、左側にも下にも水滴がしたたっていて、残った右上の空間も、いかにも上の方から蒸れた湿気が垂れてきているようで空気もじっと動かなさそう。そんなことを考えていると、藤沢の、海からそのまま風と一緒に上がって来て降ってくるような雨がふと思い出されて懐かしい。

 

台北の実家に予想以上に滞在することになって、なんだか体調を崩したり、家の中はこんなに楽なのに一体どうしてなんだろう、と思っていたのは、もしかしたら自分の体をもう一度都市という場所に戻すのに戸惑ってしんどかったのかもしれない。今ではやっとちょっと感覚を取り戻して楽しめるようになってきたけど、最初のうちは、空が見えない、砂がない、海が遠い、土が見えない、星と月が、夕焼けが、ないものばかり並べてしまって、私ってこんなに何もないところにずっと住んでいたのかと愕然としたりした。確かにもう少し若い頃の私は、人間同士とか人間がうごめいている街のいろいろの方に興味があって、土や空を眺めているより、人の顔色や仕草、表情、装い、言動、街の景色、夜の賑わい、新しくできたレストラン、昔から続くお店、そんなものに一喜一憂していた。そういった私がもうほとんど離れてきたものたちと、その代わりに毎日どんどん親しむようになっていた空や川、砂との連続がうまく見つけられず苦しかったが、ベランダや公園やそのへんにいる鳥たち、前も見えず他に音も聞こえないほど圧倒的な雨、この二つを眺めていると少しほっとすることがわかった。

 

先日の順子先生のzoomゼミの最後に、「台湾と日本とどっちがいいですか?」という質問がゼミ生からあって、とっさに「台湾かな」と答えたけど、ゼミが終わってzoomを切って、子猫を迎えに行く支度をしながら、ほんとうにそうだっけ、と考えた。あの時あの瞬間、みんなと一緒に話したりして楽しくて「今ここがいい!」とちょうど思っているところに、ここしばらく世話になって申し訳なく思っている母が向こうでうろちょろ何かしているのをどこかで気にしている自分がむっくり出てきて「台湾」と言ったなと思った。当然のことながら、日本も台湾もどっちもいいしよくないし、どっちも大事なので、本当は両方をもっと行き来できたらいいんだろうなと今でも思うけど、違う国というのは、やはり自分の意思とか想いとか周到な準備とかが全部遮断されるような、ただ距離として遠いだけではなくて、何かバッサリ、ぷっつり、切り離された上で、遠い場所でもあるのだ。日本に行けない。台湾に行けない。郵便が届かない。送れない。コロナのおかげでこのことに久しぶりに気がつけたのはよかった。台湾という存在そのものが示しているように、国、国、とみんな言うけど、国というルールやシステムが肥大して参加者も増えていく一方で、国ってなんなのか、ずっとはっきりしないままで、移動の自由なんてものも、そのあいまいな「国」の都合次第でなくなる。スマホをすいすいしながら安いチケットを探して、パスポートとお財布さえあればなんとかなる、と言って飛行機に乗って、生活費さえ稼げれば私は自由に移動できるんだと思っていた。まだ台湾でもみんなコロナに戦々恐々としていた頃、ビザが切れたまま不法滞在しているインドネシア人を中心とする外国人労働者たちが、感染しても捕まることを恐れて病院へ行かず、そのまま新型コロナウイルスの媒介人となって、台湾中の外国人コミュニティからコミュニティへ、そこからさらに台湾人へと市中感染が大規模に広がるのではないか、とニュースなどで取り上げられていた。保険証を持たない外国人が病院に行くときは、パスポートか居留証を見せなくてはならない。私もこのままこの家でずっとぼーっとしていたら、私は家族と過ごしながら、自分の生まれた家の自分の部屋で不法滞在者になって、そうか病院に行けないのか、と思った。

 

小さい頃、日本へ行くのはいつも大ごとだった。母と私が時々日本へ行く時だって、夏休みなんだから1ヶ月もすれば台湾に帰ってくるとわかっていても、おじいちゃんとおばあちゃんがいとこの手を引いて山から下りて来て、台北に住むおじさん家族、おばさんと子どもたち、どこから来たのかいとこのいとこ、そんな親類縁者たちが10人くらい、まずこの家に集合し、みんなで家を出て麗水街でタクシーを拾って、2台に分かれて台北駅へ向かい、駅のバスターミナルの窓口で國光號の切符を買って、バスの座席を何列も占領して、桃園空港まで、みんな一緒に来てくれた。外国へ行くのがあんまりにも大層なことだったし、空港へ行くことだけでも大層なことになってしまって、見送りは一大行事、礼拝にでも行くようなちょっといい服を着て、出かける前におばが私の髪をとかして、どこかで買って来てくれたリボンを髪の結び目につけてくれた。もう会えないことだってあるかもしれない、と大人たちはどこかで思っていて、子どもたちもちょっとした旅行気分でふざけて遊びながら、バイバイと手を振る時になると、どことなくやってくる陰のようなものを感じた。

 

それにしても雨が止まなくて、止まなくて。愛之助はどこかな。