敦南店の最後一天

すでにiPhoneの中は愛之助の写真だらけ。せめてブログでは自制して3日に1度は愛之助のいない写真にしなくては。毎日毎日君はなんて可愛いんだ!今も窓のへりでベランダから鳥を観察中。抱っこするとちょっと大きく重くなってるのがわかるし、エサを食べている姿の骨格が前よりしっかりしてきて、走るのも、長い棒の先にもさもさのついたのをいとこが縦横無尽にぶんぶん振り回すのを追いかけている間にものすごく早くなって、リビングのソファの上を一瞬で飛び去って、ソファからテーブルへ、テーブルから床へ、駆け抜け、飛び移り、まだまだ物足りなさそうにくるっと向きを変えて、廊下のいちばん奥まですっ飛んでいった首の鈴がチリリリリリと聴こえる。サバンナに放ったらチーターのように駆け出していきそう。でも帰ってきてね、愛之助。全てのことが新しくて、興味があって、ゆらゆら揺れるもの、音のする方、何かが動く方、動きもしないもの、噛んだら気持ちよさそうなもの、引っ掻いたら、寝っ転がったら、両手で挟んだら気持ちがよさそうなもの、全部にビクビクしながら、ふわふわのやわらかい長い体で、まあるい目で、尖った爪で、生え揃ったばかりの乳歯で、長い長いひげを伸ばして、少し遠くから眺めて、抜き足差し足、近付いていく。尻尾を立てたり、下ろしたり。そしてすぐに疲れて、ゴロゴロとのどを鳴らして、ごろんと横になって毛づくろいをし、フッとため息をつくと、寝る。

 

愛之助と話している間に、中国語って一音節の言葉がたくさんあっていいなあと思う。あっちはみゃーとかふぁーとかくーとかぐぁーとか鳴いているが、こっちもぱおーとかちーとからーいとかくゎーいとか似たようなもので、日本語の表記では表しようのない様々な音を一声立てて鳴いている。もしかしたら昔々の人は、音節を増やしていくより前に、口をいろんな形にしてみて、ベロもいろんな形にしてみて、空気をあちこち当てて震わせて鳴らせて、いろんな音を出せるだけ出して鳴いて何か伝えようとしたのかな。ちなみに猫はマオ。もうちょっと可愛く呼ぶならミャオミー。猫に「みゃおみー」って呼びかけたら、それだけでもうお互い同じ言葉で話してるみたいじゃない?

 

そういえば私の名字は廖と言って、リャオと読むのですが(エリリャオのリャオは名字なので、時々芸名だと思われているけどただの本名です)これが意外とみんな中国語圏以外では聞き取りにくいみたいで、初対面の人に挨拶をすると「エリ、、、ニャオさん?」、まさかそんな、という困惑した顔をされることがある。エラ・フィッツジェラルドとか、カート・ローゼンウィンケルとか、あんなに長くて言いにくそうな名前をみんな平気で言うのに、

 「エリ・リャオです」

と言うと、短いは短いけど聞き慣れないから覚えにくいのか、

 「エリリャオさん・・エリリャオさん ・・」

と、口の筋肉が確かにそういう風にも動くことを確認するように繰り返されることがよくある。アメリカでも一緒のようなことで、

 "So your name is.... Eri... Nyaw?"

と、コロンビアでも先生が眉間に皺を寄せて私を見た。同じクラスにいた中国系アメリカ人のジェニファーは Yao という名字で、私たちはヤオとニャオだと思われたのか、ジェニファーは授業が終わると私のところに来て、さっきの先生はアジア人に偏見がある、だいたいヤオと言うときのあの「ぃやーぁお」という言い方が侮蔑的だし、エリの名前がニャオなのか聞いてくるのだっておかしくない?、そもそもコロンビアのこのコースは白人ばかりで、黒人もラティーノもアジア系もネイティブも、マイノリティが全然いないじゃないか、こんなことは自分が今まで通った学校ではじめてだ、と怒った。私は正直自分がニャオではないと説明した瞬間が自分にとってその授業一番のハイライトで、とてもコロンビアにおける人種問題まで考えが及ばず、そうか、アメリカの中でマイノリティとして育つと、こういう場面で憤りを感じるべくして感じたりするものか、と関心した。言われてみれば、確かにコロンビアの Writing Program はどの授業に出ても非白人の学生は一人か二人だった。私はマイノリティであると感じる前に外国人だと感じていて、でもオーストラリアから来ていた留学生と比べると、一口に外国人と言っても英語が母語で英語の名前の白人と自分とでは、外国人として感じる疎外感もまた質が異なるものだろうなと思っていた。

 

今日はいとこの夫も台中で休日出勤、いとこは部屋で一人のびのびとしている。近所の青田街に住んでいる友人と、朝ごはんを食べに行った後に大安森林公園の近くでヨガ、その後光點華山へ行って「ラストエンペラー」のデジタル修復版を見に行くという、いかにも休日のOLっぽい予定を立てていて、私も誘われていたが、一緒に行くはずだったいとこの友人が生理で辛いというので延期に。家で一緒に水餃子をゆでて食べていると、いとこが、

 「姐姐,明天是誠品敦南店的最後一天呢」

と言った。そうだった。台北の本好きな人なら必ずなんらかの思い出がある書店、誠品敦南店が閉店するというので、蔡英文をはじめたくさんの人がお別れをしに訪れている。私も25で台湾に帰ってきた時、この本屋があるおかげで自分の生まれた街が大好きになって、誇りにさえ思った。ある時期の私にとって、本屋さんと言ったら世界中でここ以外なかった。きっといとこもそうだったろう。24時間営業していて、みんな地べたに座って本を読んだり、本棚が丸くなっている部屋もあったり、国内外のたくさんの雑誌があって、店内のレイアウトはいつもうきうきして、静かで、まるで想像上の素敵な図書館と本屋の中間みたいな場所だった。当時の私は夜行性だったので、眠れない時など、タクシーに乗って「誠品敦南店」と運転手さんにひとこと言って、115元を支払って降り、丸い入り口の階段を上がって、奥の方の売り場まで歩いて写真集や画集など、高くて大きな美術本を何冊も抱えて、段差になっているところ座り込んで片っ端から眺めたりした。「夜の誠品って変態がいるんだって」とよく噂されたが、私は出会わなかった。本以外にも、ミュージアムショップみたいに素敵な文房具や雑貨なんかも売っていて、オーガニックの化粧品をいろいろ試したり、イタリアらしい色合いのメモ帳を高いけど思い切って買って、結局もったいなくて使えなかったり(まだ藤沢の家の机の引き出しにある)、蔡國強を知ったのはここのギャラリーだったし、カフェはコーヒーが美味しくて、世界のいろんな音楽が揃ったCD売り場もあって、上の本屋で働いていた友人から教えてもらったビル・エヴァンスの Conversations With Myself を買ったのも、グールドのバッハを買ったのもここだった。年末になると手帳はいつもここに買いに行って、天才バカボンのカレンダーもここで買って、クリスマスカードもここに見に来て、MOMAのポップアップのカードを何年か続けて買った。敦南店の近くには当時台北でも珍しかったベーグル屋さんがあって、ぶらぶら本を見ていると彼氏から連絡があって、待ち合わせて二人でコーヒーとベーグル食べたりした。入り口の前にずらっと並んだ露天のアクセサリー売りたちは、あの頃流行っていたルイ・ヴィトンのダミエ柄を模したスーツケースのような箱をぱかっと開けて、そこに品物を並べ、取り締まりの警察が来ると、またそのケースをぱかっと閉じてさっと逃げた。あれからもずっとあそこで品物並べていたんだろうか。こうやって思い出していると、なんて懐かしいんだろう、やっぱり私も今からタクシーで行かなくちゃ、という気持ちになるけど、同じ思いの人たちは多いのだろう。店の中に入るのに200メートルの行列ができているとニュースになっているのを見て、膨らんだ気持ちもしぼむ。なくなっちゃうんだ。