ギャウ

ああもう6月か。ゆあーん。ゆよーん。あついよう。

愛之助がうちに来て1週間。お手手が大きいからお前はきっと大きくなるね。もうあとちょっとでミーちゃんを抜いちゃいそうだ。

 

毎日毎日愛之助を見ていると、くしゃみも出て、目の周りがせっかくよくなったのがまた赤くなって痒くて、朝も目をごしごししながら起きて、今朝も鏡を見ると左目が少し腫れている。でも自分の体調管理は適当なところでごまかして、愛之助、愛之助、と猫にかまけていられることがうれしい。体調を整えて世界と調和しながら在るというのは大事なことだけど、何かのきっかけでそれが上手くいかなくなって、この皮膚に包まれているこの自分としてここに在ることが辛くなって、いやでもからだのことばかり、辛い、どうしよう、苦しい、どうしたらいいだろう、痛い、苦しい、とそんな気分でばかりいると、どんどんひとりぼっちになって、どこかで誰か助けてくれるのか、誰も助けてくれないのか、暗がりをスイカ割りのようにふらふらと、さまよいながらずっと奥の方まで行ってしまう。

 

愛之助が来てから遠出をしたくなくなった。ちょっと近所に出かけても、愛之助のごはんの時間のことが気になって、ああ9時までには帰らなくちゃ、と思うと、せっかく涼しくて快適な金石堂でぶらぶらしていたのに、立ち読みしていた本を閉じて棚に戻して、なんだか歩みが早くなって、ここからどうやったら最短コースで用事を済ませて帰れるかという頭になる。どうせ帰ったって子猫はどこかで寝ているだけで、私が玄関から「あいのすけー」と呼ぶと、ふぁーあ、起こされた、と伸びをして、てってってってと歩いてくるだけなんだけど、ちいちゃな愛之助がだだっ広いマンションに一人でいるのかと思うと、私の動作はみるみるいそいそし始める。私って過保護タイプだったんだなあ。人間の親だったら大変だった。

 

正確には愛之助はひとりっきりではなく、奥の部屋で寝ているおじいちゃんと二人だ。おじいちゃんの漢名は「好助」なので、愛之助と好助、助同士で寝ながら留守番。おじいちゃんは私のことをどう認識しているかよくわからなくて、「エリチャンガカニ、メチャウじゃないの?」と私とおばを時々混同しているみたいだが、愛之助のことははっきり認識している。おじいちゃんは昔からあんまり猫が好きじゃないので、母が、気にさわるとよくないから愛之助のことは隠しておこう、どうせ寝たきりだし、と何も言わずに、おじいちゃんに朝ごはんを食べさせていると、

 「ギャウが邪魔だ」

と、ひとこと言った。おじいちゃんは昔から丸太のように無口で、めずらしく口を開いてぼそっと発する一言は、重い。

 「ナヌギャウガ、ギャウなんていないよ、どこにいるよって言ったんだけど、せっかくそう言ってやったのに、ちょうど言い終わったところでどっかから愛之助が来てね。おじいちゃんのベッドの縁に飛び乗って、おじいちゃんのおでこの上に尻尾をふさっとたらしたよ」

 

その後もおじいちゃんは、私の目が痒くなった、ギャウをうちに連れてきたせいだ、と文句を言ったりしている。「呆けジジイのかっこしてるくせに、頭はハッキリしてるよ。ギャウになんの恨みがあるのかね、昔ごはんがなかった時に食べものでも取られたのかね」」と母は面倒くさそうにする。愛之助がおじいちゃんの部屋の窓辺に座って外を見ていると、おじいちゃんは無言のまま、愛之助を指差す。

 

愛之助が来てからミーちゃんのことをみんなで思い出すようになった。ミーちゃんはこんな風に犬みたいに、ご飯だよーってお皿をカンカン叩いたら、向こうから飛んで来たりなんかしなかったねえ。對啊、私、昔数えたのよ。ミーコが食べるカリカリはいつも7粒。才七粒、你相信嗎? 愛之助はほんとうによく食べるねえ、偉いねえ、アイズゥチュウー。よく食べてミーちゃんよりちゃんと長生きするんだよ。そうだよ、咪果が食べなかったのはやっぱり体が悪かったんだよ。野良猫だったからねえ、何回目のお産で生まれたかもわからない、きっと咪果のところにまで回ってくる栄養なんてなかったから、もう育たなかったんだよ。アイズゥチュウー、お前は第一胎、栄養まんてんだねえ。1週間でもうこんなに大きくなって、どれどれ。我看看、我看看。

 

母は愛之助を「廖咪果、廖咪果」と間違えて呼ぶ。廖愛之助、リャオアイズゥチュウーは長くて変な名前だ。フルネームでも漢字二文字で済む人も多いこの土地で、下の名前だけで三文字もあるなんて、アイズゥチュウー。長くて変で可愛い名前。廖愛之助、まるで森丑之助の相棒みたいだ。蕃人の家にもらわれた高級猫のアイノコ愛之助。蕃地の野良猫ミーちゃんの跡を継いで、蕃人の家にやってきて、蕃婦4人に食わされて、世話されて、追いかけられて、撫でられて、元高砂義勇隊員の蕃丁に嫌われて、指をさされて、走り回って、かけのぼって、飛び上がって、好きに寝て、日に4食たべて、外を眺めて、ぷるぷる震えて、息をハアハア切らして、肉球にしっとり汗をかいて。人類学者の森丑之助、台湾の山地をめぐって蕃人を観察しただろうけど、蕃人たちだって丑之助をよくよく観察していたに違いない。2020年の蕃人は愛之助を観察するよ。今度はこちらもしっかり写真を撮って、記録を書いて。