ごろん

火曜日になっておばがスーツケースで戻ってきて、細いやさしい声を出して「你長大了」と玄関に迎えにきた愛之助を抱き上げた。おばは今日1日ずっと気分が悪そうにしていて、愛之助を少し撫でたりして、薬を1日3回飲むのでごはんはしっかり朝昼晩と食べて、あとはずっとソファで横になって、スマホのゲームをしたり、眠ったり。

 

去年からおばが、怖い、怖い、と言うようになった。今は埔里に住んでいるいとこの息子・大頭兵も、中学生になったくらいの頃だったからもう10年くらい前、怕、怕、怕、怖い、怖い、といつもいつも言うようになって、あの時いとこは夜KTVで仕事をしていて早朝まで家に帰れなかったから、山にいる自分の父親(母の一番上の兄)のところに大頭兵を預けた。みんなと一緒に狩りに行ったり、畑で野良仕事でもするのがいいだろう、と言って。おばは女なので狩りには行けないし、麗水街のこの家に来て母と一緒に住むようになったが、ますます怖がるようになって、母がベランダへ出るのも、トイレに行くのも、「ひとりにされると怖い、怖い」とおびえる動物のような目で文字通りガタガタと震えた。かと言って、桃園の自分の家に帰るのも怖い。母が買いものに出なくてはならない時は、早く帰ってきてほしいと懇願し、そうこうしているうちにおばは歩けなくなり、車椅子を使うようになった。ものすごく太って、ものすごく痩せた。太っていた時は毎日あんぱんを6個食べて、それも台北駅の地下街で売っている皮が薄くてあんこのぎっしり詰まったやつがいいと指定して、彼氏に買って来させた。彼氏は「どうして一気に食べるんだ」とおばに怒りながら、毎日6個お勤めのように買った。おばが、怖い、怖い、あんぱんが欲しい、と言うから。そしておばはあんぱんをひとつも食べなくなって、ガリガリに痩せて体重が40キロになった。

 

うちにはいつも車椅子がある。まだ家族で日本に住んでいた時、父が自分で歩けなくなって介護用に買ったもので、寝たきりになるすんでのところでなんとか父をこれに乗せて台湾へ連れて来た。日本で母がひとり、親戚も友人もなく、口のきける家族も私しかいない状況で父の介護を続けるのは、もう無理というところまで来ていた。父はその昔若くて羽振りのよかった頃「俺はファーストクラス以外乗る気がしないね、エコノミーなんて人間が乗るものじゃない。あれは奴隷船だ」と鼻で笑う嫌らしい金持ちだったが、私の買った格安エコノミーの適当な座席でも、今はもうJALに統合された日本アジア航空の方々は、空港でチェックインする瞬間から台北に着いて飛行機を降りるまで、車椅子の父をどこぞのVIPのように丁重に扱い、認知症の進んでいた父は顎の下を撫でられた老猫のように満足した。母と私は台北に着くまでの数時間、どうかお父さんがオムツにうんこを漏らしませんように、うんこしてしまってもどうかそのにおいが周りに漏れてきませんように、そればかり祈った。

 

父が死ぬと、今度はおばあちゃんが、膝が痛い、歩くのが辛いからイサカサンの車椅子を貸して、と父の車椅子に乗って買いものやら病院やらへ行った。私たち家族は父のことを死ぬまで、今でも、イサカサンと呼んでいて、アクセントは語尾のサンに置かれるタイヤル式だ。おばあちゃんが亡くなって、今度はおじいちゃんが歩けなくなってイサカサンの車椅子に乗った。こうなってくると、家に車椅子が一台あると何かと便利だということになってくる。おばも15年前、ちょうど私たちがこの家に戻ってきたばかりの頃、この車椅子に一度乗ったことがある。まだ、怖い、怖い、とも言ってなくて、大酒飲みで、うちに遊びに来て、自分で買ってきたお酒を飲み干して、台所にあった母の料理用の米酒を2本、どこかで大人しくしていると思ったらいつの間にか全部飲み干して、酔っ払って廊下をふらふらと、何回も何回も、同じことをくり返ししつこく、誰に言うでもなく言いながらふらふらと、時々いとこと私、遊びに来ていたいとこのいとこと三人でおしゃべりしていたこの部屋に入ったり、出たり、向かいの部屋に入ったり、出たり、そしてついにリビングへよろよろと躍り出た。リビングでは母がソファに座っており、この母は、おばの一番上のこの姉は、眉間にしわを寄せ、おばが何を挑もうが笑い出そうがわめこうが泣きつこうが、うんともすんとも返事をせず、一瞥もくれず、頑なに無視をする。おばはゆらめきながらもなんとかバランスを取って母の前に立ち、「你都不理我、你都不理我」とくり返し、どれだけ自分が苦しみを訴えても自分はかまってすらもらえないことをいたく嘆き悲しみ、おいおいと泣き始め、そのままよよと崩れていくかと思いきや、おばはぐらりと身体を持ち直し、「よし!」と気合いを入れて、まるでトライを取りにいくラグビー選手のように、テレビ台の横の古いオーディオセットの入ったガラスケースの下の段へと頭から突っ込んでいった。分厚いガラスが「ごん」と低く響いて割れ、おばの頭からみるみる血が流れだし、おばは自分の頭を触って、触った手に血がついているのを見て驚いて、わーんわーんと小さな子どものように大きな声で、最初の夫の名前をフルネームで一文字一文字、分けて叫んで吠えるように泣いた。ここまでくると、今の今までじーっと黙ってこそいたが心の奥底でふつふつと積年の怒りを煮えたぎらせていた母がついに、母が最も力を込めて発語できる母語・タイヤル語で爆発し、おばより更に大きな声で、はらわたから、この世界で苦しいのはお前だけだとも思っているのか、このパプ、クチ、動くなこの酔っぱらい、お前は馬鹿だ、酒に溺れた弱い人間だ、お前のその弱い心は腐ったうんこ、吐く息は腐ったうんこ、泣いて騒いで血を流せばこちらが同情するとでも思っているその弱い心こそうんこ、動くんじゃないこの弱いうんこ、ゆるいうんこ、お前の叫ぶ声は化け物の下痢、スプーリャック、お前は下痢だ、下痢の化け物だ、と怒り狂いながらおばの怪我の手当てをしようとした。お姉ちゃんにこんなにひどい叱られ方をして、いよいよ追い詰められたおばは、怒り狂う母より更に大きな声でぐわおーんぐわおーんと叫び泣き、母が頭の傷を確認しようとするのに抵抗する。母はいまいましそうに大きく舌打ちをして、暴れるな、パプ、ウットゥフ、クチ、クチルンガン、スプーリャック、ガァックスゥ、こんないい年していいかげんに静かにしなさい、と手を上げるとそこに、いとこのいとこが、

 

 「イサカサン的車椅子、借一下喔」

 

と、廊下の奥からさわやかに、父の車椅子を出してきた。看護師をしている彼女は、手際よくおばを車椅子の上に乗せ、床の血を拭くよう母に指示をして、母が床をきれいにしている間にタオルでおばの頭をおさえて簡易的に止血し、腰紐のようなものでおばの胴体と手足を縛り、「早く病院に連れて行かなくちゃ」と母の責任感に訴えかけた。

 

かくして私たちは、頭から血を流して泣き叫ぶおばを車椅子に縛り付け、土曜の昼下がり、人の行き交う和平東路を急ぎ足で、「どんな診療所でもこれくらいの手当てならできるから大丈夫、私も横で指示をするから」と言ういとこのいとこの声に従って、一番最初に見つけた「看診中」の札、産婦人科へと駆け込んだ。おばが車椅子に乗るのは、この時以来のことだ。今は病院の薬が効いているのか、怖い、怖い、とも言わなくなって、体重も適正体重に戻って、散歩するほどの距離は歩けないが、近所のコンビニや雑貨店にタバコや好物のピータンを時々買いに行ったり、家の中ではゆっくり歩いている。おばがいると愛之助は私のいる方へは呼ばないと来なくて、おばの寝っ転がっているリビングのソファの後ろの隙間のところに横になる。おばが追っかけっこも何もしてくれなくても、一人でしっぽを追いかけて遊んで、空気中の何者かを追いかけてハアハア息切れして、またおばの寝ているソファの後ろにごろんと横になる。