折り返し

やっと抜けた。

しばらくブログも書けなかったので、近況報告をすると、みるみる感染症にかかってしまいました。しかも顔から。面の皮っていうけど、これは厚いに越したことはないですね。薄くてつらかった。久しぶりに生き地獄へ行って、今また現世の修羅場へ、折り返し地点を回ってくるっと、よろよろ歩き出しながら時々地獄の方を振り向いてみたりしている。あーつらかった。針の山に顔面からダイブしたかのようでした。やっとよくなってきたので、振り返りを。書きでもしないとやっておられん。

 

ブログが途絶え気味になった頃、6月に入った頃から目の周りの赤みがどんどん悪化。熱っぽくて痛いけど、前に同じようなことになった時かぶれのひどいのだとお医者さんに言われたし、今回もきっとただのかぶれ、次の朝まで待とう、と思って横になっても、痛くてとても眠れない。起き上がって電気をつけて鏡台の前に座り、鏡に自分の顔をうつしてみると、腫れているせいか顔がいつものひとまわり大きく、赤紫色したのっぺらぼうのようになっている。腫れで膨らんだ顔からはほとんどの凹凸がなくなっていて、鼻も半分くらい、下の方だけもり上がって穴、という感じ。まぶたの上の赤かったとこにはぷつぷつができていて、小さいけど、ただごとではないオーラを発している。気になって、リビングのソファでブランケットをかけてごろごろしていた母のところへ、「これってあんまり普通な感じじゃないよね?」と顔を見せに行くと、母は遠慮なく、うぎゃっ、と、おそろしいものを見てしまったという動作をした。痛くてたまらんし、目の上のぷつぷつも増えてるし、ここは都会だし、わざわざこのプロセスが進んでいくのを待つ必要もないだろうと思って、夜中、タクシーに乗り、台湾大学病院の救急へ行った。筋肉注射を左腕に、皮下注射を右腕に打たれる。打たれたところを揉みながら立とうとするも、うまく立ち上がれない。「大丈夫ですか? この注射、時々めまいがする人がいますから、15分くらい座ったまま安静にして、何もなければそのままえお家に帰って大丈夫ですよ」と声をかけられて、「ハオ」と返事をする自分の声に力が入らず、妙に高くてへなへなしている。足が震え出して、全身が震え出して、猛烈に寒く、両手が黄色く、足先が紫になり、呼吸がうまくできない。真ん中が下の方にくの字に折れたベッドがやってきて、しばらくそこに寝かされ、血圧がほぼ正常に戻ったところで家に返された。「赤みも少しずつ引いてきてますよ」と帰りがけに看護師さんがにこやかに励ましてくれたが、どれどれと鏡で確認する気力もなく、そのままタクシーに乗って家に帰った。

 

翌朝、鏡台の前に座り、赤みが引いているとは思えなかった。というより、私の顔面はもはや赤いかどうかが主な問題ではなくなっていた。のっぺらぼうだった顔はさらに腫れて膨らんで、いびつな形の納豆粒が超巨大になったような形だ。そこにかろうじて入った切れ目のようなのが両目で、なんでか垂れ目になっている。目を開けようとしてもなかなか開かず、鏡にくっ付くようにしてよく見ると、昨日のぷつぷつから出てきた膿が上下睫毛の根元まで垂れて、まぶたの間でねっとり糸を引いている。ぷつぷつは目の下のエリアにも広がっている。私全体で考えればほんの小さな部分のできごとなのに、猛烈に痛くて、今この瞬間というのを耐えるのが精一杯で、時間が全く過ぎていかないことばかり気になる。集中力も行動力もないので、本も読めないし、音楽も、バッハの無伴奏さえ聴けない。先生にしっかり塗るように言われた薬を塗ってみると、塗ったところがそのままぷつぷつになっていく。まるで黒魔術だ。母は母で同じようなことを思っているのか、

「この間、エリが〇〇さんにお面を被せられてる夢を見たって言ったでしょ、あれほんとに気持ち悪い夢だった。絶対あれのせいだよ。あの人ホニだから」

という。ホニは、タイヤル語でいうケガレのような意味合いで、代々ホニの家系というのがあり、あそこの部落にはホニがいる、と噂されたり、何か悪いことが起きるとホニのせいだということになったりする。私の目のぷつぷつも、母の中では〇〇さんのホニのせいになっていて、話はさらに拡張し、どうやら母の部屋に出るおじさんの霊もまた私のぷつぷつに関係しているということになっていた。私が部屋で休んでいると、リビングの方から、母がおばたち数名に電話をかけているらしき声が聞こえる。私のタイヤル語力では会話の全てを理解することができないが、「あのホニの仕業に違いないらしい、こんなことほんとは言っちゃいけないけどね」「ウィー、あんなの人間の顔じゃないよ」などのフレーズと、大げさな抑揚、テンション感、そして台湾大学病院、注射、軟膏などの中国語の単語が聞こえてきて、どう考えても私の話をしている。母はこういう時すぐ電話をして気分を発散できる相手がいて、その方がいいんだろう。母の声がとても活き活きとして生命力に溢れている。

 

昨日行った救急にもう一度行って、ちっともよくなってないじゃないかとエリの顔を見せに行くのがいい、というのがおばたちと母の総意のようだった。母はすでに出かける支度をしていて、普段の私だったら、また救急に行ったって仕方ないよと断るけれど、家で寝ていたって辛いし、断るのも面倒だし、もうなるようになるだろうと、母と一緒にまた昨日の救急へ行った。出てきた若い先生は私と目を合わせてくれないが、私はマスクを外してうらっ返し、顔に当たる鼻から頬にかけての部分に、黄色い膿が目くそ鼻くそのようにべっとり張り付いているのを見せた。先生は「不夠強」、今の薬じゃまだまだ弱いということを言って、パソコンのキーボードをばちばちと叩き、さらに強い塗り薬をくれた。帯状疱疹なら体の片側だけですしねえ、そうですよねえ、と当直の先生たちが私を少し眺めた後、やっぱりかぶれなんだろうという結論になった。

 

お会計を待っていると、横に座っていたおばあさんが「なんでそんなに腫れてるの?」と私にたずねた。こんなおぞましい顔でも見知らぬ人が話しかけてくれるというのはありがたかった。もごもご答えていると、おばあさんは私が話し終わるのを待たずに、「悪い虫に刺されたんだ、悪い虫に刺されたんだ」と念仏のように繰り返した。お会計はたったの78元で、「これなら毎日来てもいいわね」と母が突然ちょっとうれしそうにした。

 

もらったさらに強い塗り薬は、塗ってたった数時間で、見事に私の顔面を変容させた。小さなぷつぷつのあった一帯は、細かい半透明の水泡が隙間なくびっしりと、何列も何列も並んだ行列になって、行列は細かい水泡たちを少しずつふくらませながら、まぶたの下、目の周り一帯、こめかみ、眉間、鼻梁、小鼻、両ほほ、と、どんどん下にくだっていった。そして、おでこ、あご、首、肘の裏側、指の付け根、と、飛び地のように、間の空いた点字のような配置で赤黒いぼつぼつができている。眉間は皺が寄った状態で固定していて、しかめっ面をしている訳でもないのに、苦しくて困っている人の顔になっている。今後こうやって、巨大な納豆型の、のっぺらぼうなのにしかめっ面で、膿が糸を引き、水泡の行列が続き、赤黒いぼつぼつが点在し、こういう人として痛みと共に生きていくことになっても、これはこれでひとつの人生として受け入れるしかないんだよなあ、などと思いながら、夕方、少し涼しくなるのを待って、日陰をつたって、うつむいて、人をよけて、信義路の手前まで歩き、おばがいつも診てもらっている家庭医学の先生のところへ行った。先生は「細菌感染だと思います」と神妙な面持ちで言った。この先生はいつ見ても青白く神妙な顔をしていて、今回はそれがぴったりだった。台湾大学の先生に紹介状を書いてくれて、その場で予約を入れてくれた。予約は二日後だった。

 

翌日、母のいとこ二人から連絡があり、うちに拝みにくると言う。私の顔面が大変だという話はすでに親戚中を回っているらしかった。例の〇〇さんのホニ、それからこの家の地縛霊を拝むそうだ。彼女たちは30年ほど前から在家で仏教の修行をしていて、最初の頃は、水子や幼くして亡くなった妹や遠いご先祖を拝んでくれたというから、まあそれはどうも、と思っていると、「一人あたり2000円」と頼んでもないのに拝み料を請求してくるので、部落中でみんなから警戒されていた。さすがに今はもうそういうことはしなくなったが、頼んでないのに拝みに来るところは変わらない。そうやって徳を積むスタイルなんだろう。拝んでくれるのはまあありがたいけど、この顔で出て行ったらかえって心配されるので、私は具合が悪くて部屋で寝ているという設定にした。おばたちには何年も会っていないので会いたかったけど、顔を見せたら、これは・・・、と別途料金が発生するかもしれない。もしくは、自分たちではこのホニには太刀打ちできないから位の高い大師さまのところへ、と連れて行かれかねない。元気な時なら見物してみたいけど、今は動くのも辛い。

 

ピンポンがなると、母が私の部屋のドアを閉めに来て、リビングの方でおば二人、片方のおばのだんな、そしておばあちゃんの妹ヤキユクイが話している声が聞こえた。おばあちゃんが生きてた時はそんなことちっとも思わなかったのに、今こうして聞いていると、ヤキユクイの声は時々おばあちゃんの声そのもののように聴こえて、懐かしさでいっぱいになる。ヤキユクイは86歳、おばあちゃんが亡くなった時と同じ歳だ。ヤキユクイが、私の部屋の前の廊下を通って、トイレに歩いて行く足音が聴こえる。一歩一歩、ゆっくりしているが、杖もつかず一人で歩いているおばたちの声が高くやさしくなっているのは、きっと愛之助が出てきたんだろう。おしゃべりは3時間ほど続き、静かになったと思うと、おばたちが拝み始めた。日本でお葬式の時なんかに聞く読経とまた違って、まるで歌うようだった。帰る前に、みんながおじいちゃんの部屋に寄っているのが聴こえた。「頑張って、マシン」とヤキユクイがおじいちゃんの名前を呼んで、日本語で励ましていた。

 

1日待って、先生が書いてくれた紹介状を持って、また台湾大学病院へ。診察室に入ると丈の短い白衣を着た学生さんたちがずらりといて、「ああ〜重症ですね・・・」と、ワナにかかった珍しい鳥を見るように、ちょっと離れて私を囲んで、herpes simplex、herpes simplex、と数名がほぼ同時につぶやいた。邱先生といういかにも教授らしい人は、もう少し丈の長い白衣で、私の目をしっかりと見て「これはアレルギーなんかじゃないです。單純皰疹、単純ヘルペスです」と言った。授業を受けるような気持ちでこの病気と薬の説明を聞き、先生は付き添いで来ていた母に、治療すれば治るので大丈夫と伝え、診察が終わった。私は別室に移動し、黒い幕の前に座らされせて、学生さん二人が立派なカメラでずいぶんたくさん私のヘルペスの写真を撮った。学生さんたちは私の子どもになれるくらい若いのに、物腰柔らかで、親切で、不気味な私を価値ある人間のように扱ってくれて、おそらく非常に優秀で、なんと玉のように尊い人たちなのだろうとありがたかった。それだけでもう治りそうだ。

 

それからかれこれ2週間、やっと落ち着いてこうしてブログも書けるようになりました。感染症といえば最近はひたすらコロナで、でもコロナにかからなくたっていくらでも感染症はあるし、病気というのはどれもこれも辛いですね。病気ってなんなのだろう、今ここでこんな病気にかかるなんて、何か意味があるのかしら、と、せっかく辛い目にあったんだしと考えてみたかったけど、今回の感染病は、「んなもん知るか、いちいちお前が喜ぶような意味なんて何もどこにもねーよ」というエネルギーがものすごかった。自分の体が数時間であれほどみるみる変容していくのは、なんであれすごい。痛くなければもっと感動していただろう。途中からよく効く薬にめぐりあい、薬は薬でこれまたエネルギーがすごくて、私がベッドから起き上がろうとするたび、「いいから寝ろ」と、まるで後ろから大きな熊が私に手を上げ、バフォッ、バフォッと倒され、失神させられるようだった。あの病気のエネルギーも、あの薬のエネルギーも、少しずつ感じられなくなってきているということは、私自身が「んなもん知るか、意味なんかねーよ、いいから寝てろ」と、バフォッ、バフォッと、殴り倒すエネルギーになっているということだろうか。しばらくお留守になっていたブログも、リハビリがてらまた再開したいと思っています。バフォッ。