井沢さん

チラシを送りに郵便局へ行く途中、通り道にある近所のクリーニング屋さんの店先に工事の作業員の人が3人座り込んでるから、あれ?と思ったら、閉店のお知らせが貼ってあった。呆然としている私に「こんにちは〜」と真ん中に座ってる作業員の人が声をかけてくれた。1ヶ月くらい前に閉店していた。ということは私は1ヶ月この道を通ってなかったんだ。通った気もするけど、工事してなかったから気が付かなかったのか。お店の中はすっかり空っぽになっていた。あんなにたくさんの服がびっしりとかかって、小さな工場みたいにいろんな機械があったところ。店主のおじさんは、おしゃべりではないけど何かと話してくれる人で、会話をいろいろ覚えている。閉店のお知らせには、60年間ありがとうございました、と書いてあった。60年間毎日いろんな服を見てきただけのことがあるな、と思った。60年間。私がクリーニングに出す服と言ったらよっぽど大切にしている服で、おじさんはその私が大事にしている服を、いつもふんわりきれいに仕上げてくれて、受け取りに行くと、その服について、私がうれしくなるようなことをポロッと言ってくれるのだった。

 

衣装用に買ったお気に入りの白いワンピースが、そろそろ私も年齢的に微妙かなあと思って着ていなかった間にいつのまにやらシミができていて、その時もあわてておじさんのところに出しに行った。数年放置してたから大丈夫かな、白だし、ちょっといい生地だし、と心配だったけど、受け取りに行くと、もちろんシミもきれいになって、ワンピース全体がまるで空気が入って踊り出しそうに軽やかになっていて、

「あなた、これ着てもっと遊びに行ったらいいよ」

と、おじさんは言ってくれた。それだけですごくうれしくなった。ここ最近は素敵だなと思う服はほとんど衣装になって、プライベートで遊びに行くときはかえってどうでもいい格好でリラックスしてしまう。でも素敵な服でどこかへ遊びに行くって、すごくたのしいことだったもんね。お気に入りだったのに、雨で濡れたままうっかり袋の中に入れっぱなしでくちょくちょになってしまったトレンチコートも、やっぱりふんわり踊り出しそうにしてくれて、買った時より素敵になってて、さっそく着て出かけたら、たのしくなって思わず飲みすぎて、どこかにベルトを落としてきてしまってまだ見つからない。おばがせっかくカナダで買ってきたのに「あったかすぎて気絶しそう、台湾でこんなの着たら気が狂う」と私にゆずってくれたダウンコートも、おじさんが、

「これはね、ものすごく上等なコートですよ」

と言いながらとても丁寧にたたんで大きな袋に入れてくれて、私はそうしてくれるおじさんのことも、そんないいコートをあっさり私にくれてしまったおばのことも、ああ大好きありがとうと思いながら、なんとも満たされた気持ちでふかふかのコートを抱えて、尼寺を通り、畑の横を通り、一歩一歩かみしめるようにして家に帰った。

 

おじさんはなぜだか私のことを「井沢さん」と呼んでて、わざわざ訂正するのもな、と思ってそのままずっとあのクリーニング屋さんでは私は井沢さんで、スタンプカードも井沢で更新してもらったし、タグにもずっと「井沢様」と達筆で書かれてあった。きっといつぞや、私みたいな、本当に時々しか来ないけど、その時々来る時はいつもすごーく大事そうな服を持って、決死の表情でお財布を握りしめていた(おばのコートはクリーニング代が6000円もした!)井沢さんがいたのかもしれない。

 

これからどこのクリーニング屋さんに行ったらいいだろう。60年間ああやってみんなとみんなの服を大事にしてくれたあのおじさんが、きっと元気でゆっくり休んでいますように。