愛着

 お正月も旧正月もどんどん過ぎて、日本に戻ってまだ一週間経っていない。ずっと街にいたせいか、ここに戻ってくるとホッとする。なんということのない川と松の木と、冬の日の乾いた空気。海に近い片瀬の方では人のお庭の梅がもう咲いていて、思わず私は声が出る。私もふわっとマスクを外して、梅のにおいをかいだ。こんなところを散歩したりして年老いていくのはいいな、今老人になってもいいくらいだな、という気持ちになって、いやいやまだこれからでしたね、と思い直す。日本を離れている間、全く日本のことなど恋しくならなかったのに、たった3週間ぶりで、なんだろう、こういう晴れた日、この静かな住宅地でゆっくり自転車を漕いで、私の背中から太陽がダウンをぽかぽか温めてくれて、川や梅の匂いをかぎ、誰かとすれ違い、水鳥を見たり、私は胸がしめ付けられるような気持ちになる。出会い直しているのに、まるで別れていくように苦しい。海辺ではそうならない。海辺で海を眺めて、私の気持ちはただひたすらに晴れわたって、遠くの希望のようなものとひとつになってそこにいるような気持ちになる。

 

 郵便物を取りに藤沢駅の方まで行くのに、西浜から向かうのでいつもと違う道順になる。前世何があったのか知らないが、私は背丈の低い地元スーパーというものに非常に強い愛着がある。交差点にあるフジスーパーはまさにその愛着の対象で、かといって別にここで買い物をするわけではないのだけど、2階も屋上駐車場もないその姿がただとっても好きで、最寄りのフジスーパーよりここの方がずっと好き。このままずっとあってほしいという気持ちが強くある。こんなふうに晴れている日は余計にそう思う。という気持ちでゆらゆら自転車を漕いでいると、私は行く予定のなかったパイニイに行かなくてはならない気持ちになって角を曲がる。赤い看板が見えて、よかった、ここだ、と思う。ここもしょっちゅう来るわけではないのに、私は問答無用でパイニイが好きだ。確かにパイニイはパンもごはんも美味しいけど、だから好きとかそういう問題ではなくてとにかく好きなんだというこの気持ちは、14歳くらいの私がまだ私の中にいて、その私はここに母と一緒に来ている、その気持ちだ。実際の母はパイニイに来たことはない。それでも私はここに母と来ている。今の私と14歳の私が連れ立って、母も自転車で、私たちは一列になって自転車を漕いで、母が前を走り、私は母の後ろを、列になって前後ろで走っている。実際の母は、いとこからもらった電動自転車で大安森林公園の近くの電柱に激突して吹っ飛び、「阿姨你還好嗎?」と台湾の親切な若い男の子に助けられ、自転車は道にぶん投げたまま歩いて家に帰ってきた。それっきり母は自転車に乗らない。でも私は今、母と一列で自転車を漕いでここに来て、新屋敷の橋を渡り、パイニイの階段をのぼってドアを開け、丁寧に並べられたいろんな種類のパンを全部眺めて、そこから4つ選んで買う。背丈の低いスーパーは、もっと大人になった私が一人で行く。

 

 昨日海で落としたと思った母の指輪は、今朝、自分の部屋の机の下、床の上に転がっていた。光っていてすぐわかった。昨日何度もここを探したのに。拾ってすぐに指にはめた。昨日、大事な予定を遅らせてもらって家中をくまなく探し、家の中にないなら、と外に出て自転車置き場から玄関までの地面を探し、あとはもう海を探すだけかと思った時、やっと私は指輪をなくしたと受け入れる準備ができた。今朝も、今日からの私は母の指輪がない日々を送るんだともう一度自分に言い聞かせた。二人の友人に指輪をなくしたと伝えた。もう一人に言おうかなと考えていたところだった。

 

 昨日いただいたお弁当がとても美しい。一晩たっても、ししとうの焦げ目もツヤも、しば漬けも美しい。同じく美しいそぼろや、その下の思いがけないうずらや、綺麗に敷かれた細い海苔、その下のちょうどよい量のごはん、という形をとって私の前の四角い箱に収まっている一体何を、私は今食べているんだろう。